ここから本文です。
享保2年(1717)に加賀藩の出船御用として能登を訪れた森田盛昌が記した「能州紀行」によれば、「(前略)屏風崎と云ハ、左りハ松百・石崎より続き、右ハ嶋の地也。屏風を立てたるやうなる岩両方に有、上の屏風、下の屏風と云。是より西を指て漕渡れハ涌浦の湯の嶋、(後略)」とある。また、昭和3年(1928)発刊の『鹿島郡誌』には、「石崎屏風といい北に斗出すること十数町恰も屏風を立てたるが如く須曽屏風に対し海峡をなす其の距離約七町、断崖削壁高さ五十尺海潮巌を噛んで雪花を噴き巌肌の赭色(しゃいろ)に映じて巌上の翠綠将に滴らんとし蒼松巌角に懸りて龍の吟ずるが如く七尾湾中の絶景たり」と記されている。
《屏風崎の風景》
(左:屏風崎より風光絵の如き和倉湾を望む)(右:和倉より見たる屏風崎の奇勝)
(左:屏風崎 和倉温泉)(右:風色美はしき屏風崎の景観)
(左:屏風崎と帆船)(右:和倉温泉 屏風崎の景)