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更新日:2013年5月31日

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特集 七尾×無名塾

市民と無名塾がともにつくりあげたドラマがここにある旧中島町が無名塾主宰仲代達矢氏とつながりがあり、「演劇の町」を掲げて町おこしを行っていたことは多くの市民が知るところ。

しかし、どのようなきっかけでこの「演劇の町」構想がスタートしたのか、そして現在に至るのかを、どれだけの市民が理解しているのだろうか。

今年、第5回能登演劇堂ロングラン公演無名塾「ロミオとジュリエット」が開催されることを機に、終演までのシリーズ特集として、皆さんとともにこの地で演劇が生まれてから現在までの歴史や演劇が根付いた理由を振り返ってみたい。

そして、地方の小さなまちに、日本に誇れるOnlyOneの演劇文化があること、その意味と意義を改めて考えてみたい。

それは偶然の出会いからはじまった必然のドラマ

能登演劇物語【第一幕】

どうして能登だったのか?

日本演劇界の重鎮、仲代達矢さんと七尾市との結びつきについて、多くの人がこう尋ねる。仲代氏自らも後に語るように、その出会いはどんな脚本より劇的だった。

幕開けは昭和58年。家族旅行で能登を訪れた仲代氏は、知り合いを訪ねて旧中島町に立ち寄った。波静かな内湾の景色、黒一色の瓦と白壁の蔵が織りなす町並みに鮮烈な印象を受け、ふと「能登本来の美しさを発見することが文化なんだね。こんなところで、無名塾の稽古ができたら」とつぶやいた。この言葉が、能登に演劇という種をまくこととなる。

人づてにこの一件を聞いた旧中島町はすぐに行動を起こし、昭和60年、無名塾の能登中島合宿がスタート。当初は民家で分宿し、稽古は武道館や中学校体育館で行われた。演劇とは無縁の土地で「無名塾」を知っている人はほんのわずか。「無名塾ってどこの学習塾や?」と聞く人も一人や二人ではなかった。だが、もともと情に厚いのが能登人気質。塾生の礼儀正しさや夢に向かって努力するひたむきな姿に、食材の調達を手伝ったり、差し入れをしたりする住民が現れるとその輪は一気に広がり、互いの距離も縮まっていった。舞台稽古の公開を機に、練習とはいえ本物の芝居に接し、迫真の演技に魅了された人々の間で、演劇に対する関心が日に日に高まり、東京公演開催時には観劇ツアーが組まれるほどに。演劇熱はいつしか「本物の芝居をこの地で観たい」という機運となり、劇場建設は住民共通の夢として語られるようになっていった。

平成に入り、全国ではふるさと創生事業や若者定住促進などの地域づくり事業が各地で進められた。全国的に文化会館や劇場などの建設が進められたのもこの頃のこと。

平成5年、旧中島町でも地元の夢だった劇場建設が動き始め、地元資源を生かし、「無名塾合宿のまち」を活用した、仮称「中島町演劇文化ホール」という全国的にも珍しい演劇専門の劇場を造ることが決定した。すでに能登と深い縁で結ばれていた仲代氏はすすんで監修を引き受け、設計者を無名塾巡演へ同行。第一線で活躍してきた役者ならではの視点から各劇場の長所や短所を熱心に指導した。国内で類を見ない仕掛けとして、「舞台の後壁が開いて、海をバックに芝居ができないか」と提案したのも能登を愛するが故の仲代氏のアイディア。これまでに例が無いため、設計者は東奔西走。紆余曲折を経て、造船所のハッチを活用することで実現にこぎつけた。建設場所が海浜ではなかったため、「バックに海」という構想は実現できなかったが、ホリゾント(舞台奥に設けられた壁)が開き、里山の借景が舞台と一体となる能登ならではの豪快な演出が可能になり、外舞台へと広がりを見せる幻想的な芝居は、能登観劇の魅力として全国に発信されることとなった。

能登演劇堂の起工式に寄せられた仲代達矢夫妻の書簡に、演劇文化の振興と建設される劇場の将来像について、先見の銘が述べられている。

人間と人間が出逢い、暖かくかかわり合うことの大きな力を今しみじみと不思議に思い、驚きとそして喜びを禁じ得ません。

この劇場の中で、どれだけ濃い劇世界がくりひろげられ、どれだけ多くの人たちに濃く影響し、かかわりを持てるかはこれからの、みんなの問題です。

本当の香り髙き文化の芽を、この土地に力強くはぐくんで行ってほしいと願っています。それを長く継続していくことは大変なことだと思います。

この劇場が末長く人々の情熱に支えられ、人々に感動を与え続ける小宇宙になりますように心から祈っています。

無名塾 仲代達矢、隆巴

住民の思いがカタチになったホールは、贅肉を切り落とした「芝居のための劇場」。祈りの意味でもある「堂」の名にふさわしい風格ある造り。これらに、能登からの演劇文化の発信をめざして「能登」の名称を冠し、能登演劇堂と命名された。能登に演劇という文化が芽吹いた瞬間だった。

(次月号へ続く)

演劇がもたらした七尾の姿

七尾市総合計画で目指す将来像は「人が輝く交流体感都市」。その解説には、日本や世界中の人々を引き寄せ、来訪者と市民がその魅力を体験・感動し、交流する「交流体感都市」の実現を図り、「世界に誇れる人と地域」を目指すとある。実現するための取り組みの一つとして地域に根ざした演劇文化の振興を掲げている。この礎石となった出来事は30年前にさかのぼる。

昭和58年、無名塾の主宰者である仲代達矢氏が家族旅行で旧中島町を訪れた際、こう話した。「小さな湾を挟んで向かい合うひなびた町。静かな内海に映える緑の山並み。静寂の中を、能登島に渡るポンポン船のエンジン音がこだまする。そこだけ別の時間が流れているような情景。この恵まれた自然の中で芝居の稽古ができたらな」と。この言葉から、仲代達矢と無名塾、そして七尾市が30年間で築き上げた信頼関係が今日の姿である。

旧中島町商工会役員の瀬口庄八氏と無名塾の演出家林清人氏が知人であったことから、仲代氏の能登旅行が実現し、この地での無名塾合宿がささやかれた。それを受けて旧中島町が受け入れ体制を整え、昭和60年に初めて7日間の合宿を実施した。

当時、過疎化に悩む旧中島町は、無名塾の合宿が町おこしの起爆剤となり、何らかの町の活力になればと考えた。

初めての合宿では、仲代氏をはじめ宮崎恭子夫人、今ではドラマや演劇などで活躍している若村麻由美さんなど、38人の塾生が参加。武道館で稽古を行い、公開稽古も実施。詰めかけた約熱気溢れる塾生の稽古に圧倒されていた。以後、8回の合宿が行われ、地元の若者との交流や塾生が旧中島町の成人式に460人の町民は、参加するなど、無名塾と住民は太い絆で結ばれた関係となった。

このような交流が行われたことで、「この地で演じてみたい」「この地で演劇を観たい」というムードが湧き立ち、演劇専用ホールの建設構想が生まれた。その結果、能登演劇堂の誕生となったのだ。

旧中島町は、町にしかない資源(資産)を生かすことが重要だと、「無名塾合宿の町」を活用し、「演劇の町づくり」を目指した。

演劇専用ホールの建設には、仲代氏の思いが入った内容にしなければと仲代氏に監修を依頼。快く引き受けてもらった。中島町町制40周年に併せ、平成7年の完成を目指し、無名塾と町民の夢を現実のものとするべく始動した。

仲代氏の「もし、舞台の後壁が開いて、海を背景に芝居ができたら素晴らしい」という話から、この施設で一番の見せ場である、舞台後壁の大扉の観音開きが設計された。施設の設計やこの舞台で行われる芝居は、日本で初めての傑作となるべく、オンリーワンの施設づくりを目指した。

建設構想から4年の歳月をかけ、平成7年に夢にまで見た「日本でオンリーワンの劇場能登演劇堂」が完成。こけら落とし公演として、無名塾イブセン作「ソルネス」が公演され、喝采を浴びた。これを機に無名塾の全国公演は、能登から全国へとスタートする形式となった。

その後、数々の公演が行われ、平成9年には、初めての能登演劇堂ロングラン公演「いのちぼうにふろう物語」を実施。30公演で19,541人を動員し大成功を収めた。

平成21年の演目は、地方公演では例がない50公演を実施した第4回能登演劇堂ロングラン公演「マクベス」。この公演は、桁外れな公演回数はもちろんのこと、本物の馬を数頭使った演出や、毎回数十人のエキストラが登場するなど、能登演劇堂ならではの感動の舞台が展開された。観客動員数は32,912人を記録。演劇界の歴史に大きな業績を残した。

演劇から七尾市に影響を与えたのは公演回数や観客動員数、経済効果ばかりではない。地域や市民に演劇文化が浸透していた。

一つ目は、平成9年頃から中島高等学校に演劇科を設置してほしいと石川県などに要望。その思いが届き、平成11年に中島高等学校普通科演劇コースが設置されたのだ。その後、中島高等学校は閉校したが、学校統合された七尾東雲高等学校に演劇科が設置された。年間を通して能登演劇堂で授業が行われ、6月には能登演劇堂で卒業公演が行われている。

二つ目は、平成9年に旧中島町中央公民館主催で行われた「演劇教室」が母体となり、中島町民劇団が誕生したことだ。現在では、市民劇団「劇団N」と名前は変わったが、演劇文化による町づくりを推進する市民活動として評価されている。

30年前、今あることが想像できたであろうか。偶然の出会いから始まった必然のドラマが、今もなお続く。

七尾×無名塾のあゆみ

昭和58年仲代達矢・宮崎恭子夫妻能登旅行自然の豊かな中島で合宿できたら…

昭和60年中島町で、無名塾の能登合宿始まる「どん底」公開練習

昭和61年第2回合宿「プァーマーダラ」公開練習

昭和62年第3回合宿「ルパン三世」公開練習

昭和63年第4回合宿「肝っ玉おっ母と子供たち」公開練習

平成元年第5回合宿「シラノとベルジュラック」公開練習

平成3年1月第6回合宿新春フォーラム

7月第7回合宿「令嬢ジュリー」公開練習

平成4年第8回合宿「ハロルドとモード」公開練習

演劇文化ホール建設内定

仲代達矢氏夫妻

演劇文化ホールの監修を内諾

無名塾林清人氏ほか4人の一流スタッフを舞台・音響・照明部門のアドバイザーに委嘱

平成5年9月演劇文化ホール・生活情報センター起工式

平成7年5月能登演劇堂オープン

こけら落し公演「ソルネス」上演

仲代氏「能登演劇堂名誉館長」

「中島町名誉町民」

平成8年第12回合宿「リチャード三世」

平成9年第13回合宿第1回能登演劇堂ロングラン公演「いのちぼうにふろう物語」

平成10年第14回合宿「わが町」「愛は謎の変奏曲」(松竹仲代氏出演)

平成11年第15回合宿「どん底」

平成12年第16回合宿「セールスマンの死」

平成13年第17回合宿

第2回能登演劇堂ロングラン公演「ウィンザーの陽気な女房たち」

平成14年第18回合宿「セールスマンの死」

平成15年第19回合宿「森は生きている」

平成16年第20回合宿

第3回能登演劇堂ロングラン公演「いのちぼうにふろう物語」

平成17年第21回合宿「ドライビングミスディジー」(民藝仲代氏出演)

平成18年第22回合宿「長州異聞」

平成19年第23回合宿「ドン・キホーテ」

平成20年第24回合宿「長州異聞」

平成21年第25回合宿

第4回能登演劇堂ロングラン公演能登限定公演「マクベス」

「ジョン・ガブリエルと呼ばれた男」

平成22年第26回合宿「炎の人」

平成23年第27回合宿「友達」

「ホブソンの婿選び」

平成24年第28回合宿「無明長夜」

「授業」(仲代氏)

平成25年第5回能登演劇堂ロングラン公演「ロミオとジュリエット」

そのとき能登の風土が私と共鳴したんです

無名塾主宰 仲代達矢さん特別インタビュー

問1旧中島町を訪れたきっかけは何ですか?

私は役者ですので、芝居の巡業であるとか、映画のロケであるとか、全国各地を回る機会があります。もう、日本全国すべてのところを回っていると思っていたんですよ。

あるとき、無名塾の演出家の林が「仲代さん、能登半島に行ったことがありますか」と聞くので「行ったことがあるよ」と答えたんですけど、日本地図を広げてみると「あっ、能登半島は行ったことがない。金沢までだ」と分かったんです。

そこで昭和58年の10月頃だったですかね、10日間くらい休みがあったので「行っていないのなら、能登半島へ」となって、女房と女房のお袋、そして林と私で能登半島に行ったんです。林の友達が旧中島町にいたので、そこに泊まりながら、10日間能登半島を巡ったんですよね。その時、こんなに素晴らしいところが日本にあったのかと感動したことを今でも鮮明に憶えています。山があり、海があり、魚もおいしい。そういった旅行で訪れたことがきっかけですね。

問2当時の印象は?

日本列島あちこち行きましたが、ここはほかとは違うと思いました。一つ目は、夜空の星が近い。二つ目は、能登の人たちは、人情深く素朴な人たちが多い。こんな素晴らしいところがあったんだと本当に思いました。

無名塾は東京に稽古場がありますが、昔は倉庫みたいな小さな所で稽古をしていたんです。大きなステージで稽古をしたいと思ったら、転々と会場を求めて歩き回るんです。

そして、能登半島を旅行した時「空気がきれいだし、そこに住む人もいい。食べ物もおいしいし、こんなところで稽古ができれば最高だね」とつぶやいたんです。そしたら、旧中島町の方から「中島町と無名塾の若者を交流させて、合宿をしたらどうですか」と言われたんです。その言葉がきっかけで1週間、合宿をしたんですよ。当時は、各家庭に泊めてもらったんですよね。稽古場所は、武道館や体育館などを借り、稽古をしました。そんな合宿がずっと続きましたね。

この30年、私と無名塾、旧中島町は、相も変わらずこんな関係を続けているんです。

問3合宿や演劇公演をこの七尾市で続けることができるのはなぜですか?

それは人と人との出会いです。初めは「どうして、無名塾を合宿させたり、お世話したりしないとダメなんだ」という話がありましたね。しかし、毎年合宿を続けると、地域の皆さんと打ち解け合うことができましたし、中島商店街を歩くと、皆さんが団員の名前などを覚えてくれて、話かけてくれたんです。その時、町民になったような感じがしましたね。

このような劇団と地域の人たちとの交流が、30年間も続けられているってことは珍しいんです。これは、地域の皆さんの懐の深さがあるからこそですよね。

私たちも地域の皆さんのご期待に応えるべく、年に一度、無名塾の芝居を作り全国公演するんですけど、そのスタートは能登演劇堂からと決めています。

問4能登演劇堂の魅力や評価は?

先に結論から言いますと「日本一の劇場」ですね。能登演劇堂は全国でも少ない演劇専門ホールです。東京の有名な劇団でも、能登演劇堂を訪れると、素晴らしいと拍手をするんですよ。

また、舞台の後ろは観音開きとなっていますので、屋外までも舞台となる劇場は世界でも珍しいですね。こんな素晴らしい劇場を旧中島町で作っていただき、今も七尾市として運用してくださっているということに、本当に感謝しています。

私がこの世から去ったとしても能登演劇堂は残っています。これは、「日本の演劇界の宝」ですよ。今後も、みんなで大事に劇文化として位置づけしていただくとうれしいですね。

問5市民へメッセージをお願いします。

地方にこんな劇場があることは、日本では本当に珍しいことですし、素晴らしいことです。そして、能登半島七尾市、能登演劇堂を中心と考え、全国からたくさんのお客さんに来てもらえるような芝居を作ります。ぜひ、七尾市の皆さんにもいろいろな面でご協力いただきたいと思いますし、いっしょに創り上げていきたいと思います。

七尾市民の皆さん、これからもよろしくお願いします。

お問い合わせ

所属課室:企画振興部広報広聴課

〒926-8611石川県七尾市袖ケ江町イ部25番地

電話番号:0767-53-8423

ファクス番号:0767-52-0374

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