タイトル:七尾里山里海百景

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概要

七尾湾を中心とした豊富な資源から漁師町としても栄え、また能登らしい固有の農業文化も育み守られてきた、七尾市の里山里海の百の景色を紹介する電子ブックです。

神社等七尾里山里海百景079田鶴浜建具の製造はここから始まったとされる見ることができる。また、当時の長家の勢いを垣間優れた寄進物などから、の長家領主や家臣からの所や、寺院に伝わる歴代側の丘陵にある広大な墓として保護され、境内左藩政期は長家の菩提寺称した。とって、「東嶺寺」と改号「東嶺殿良?庵主」をとうれいでんりょうせんあんじゅそして、寺号を連龍の法に整地されたといわれる。墓所も造成して現在の形した。この時に、広大な(1650)に堂宇を改築どううを弔うために、慶安3年連頼が、父・連龍の菩提つらより連龍が亡くなると、子の元和5年(1619)にと七尾城下にあり、実相院と称してい在の場所に移転した。開創された。現在の地に移る前は、も長連龍が鹿島半郡を所有する際に、現つらたつ永正17年(1520)、長氏によりわれる。その後、天正8年(1580)、た長家の菩提寺である。にちなんで「花渓寺」と改称したといかけいじ洞宗の寺院で、91年間鹿島半郡を治めが母の墓所とし、その法号「東嶺寺は、七尾市田鶴浜町にある曹たが、天正5年(1577か花)け、い渓え長い栄しゅ綱春ん連」つなつら鹿島半郡を治めたはんごおりちょう長家の菩提寺、田鶴浜建具発祥の寺東嶺寺とうれいじ市指定建造物(本堂、山門)当時の姿を見ることができる。っていて、360余年を経て、現本堂は改築時の建築が残れる。浜建具の発祥となったといわって弟子入りしたのが、田鶴れる。そのとき、村民がこぞの製作にあたらせたと伝えら職人)を招き、戸障子、欄間張から指物師(木工品の専門さしものしまた、堂宇の改築の際、尾うかがえる。り、城郭を連想させる構えが丘陵には、見晴台が設けてあ在は用水)をめぐらしている。境内の前方と横側は堀(現建造物に指定されている。本堂と山門は、七尾市の指定長家の菩提寺として建立市の指定建造物に指定されている本堂境内左側の丘陵にある広大な墓所。中央が長連龍の墓95参考文献―書籍『図説七尾の歴史』(七尾市)「近世の七尾」P 76-77『書府太郎上巻』(北國新聞社)P 678―ホームページ『ほっと石川旅ねっと』(石川県観光連盟)「東嶺寺」『加賀・能登の禅寺をたずねて』(曹洞宗石川県宗務所)場所東嶺寺/七尾市田鶴浜町ニ-253地図へ