タイトル:七尾里山里海百景

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概要

七尾湾を中心とした豊富な資源から漁師町としても栄え、また能登らしい固有の農業文化も育み守られてきた、七尾市の里山里海の百の景色を紹介する電子ブックです。

赤蔵山の登り口にある標柱と鳥居領主となった長連龍により、再興されつらたつ堂などが焼失し、その後、鹿島はんごおりに起こった上杉謙信の兵乱によ半っ郡ての社猿の石像「見ざる、言わざる、聞かざる」れてきたと伝わる。しかし、天正年間造営したとみられる。地元の人たちの厚い信仰によって守らこの時に現在の本殿、拝殿、仁王門を治す願いから赤蔵山に社が建てられ、を寄進し、赤蔵山上一本宮寺となった。じょういちほんぐうじ(730)、聖武天皇の皇太子の眼病を連龍の子・連頼が社領として61石6斗つらより神社の言い伝えによれば、天平2年本宮寺、寛文元年(1661)には、ほんぐうじ院」として信仰されてきた歴史をもつ。承応2年(1653)には、赤蔵山あかくらざん「神社」というよりも神仏習合の「寺人たちの信仰を集めたと伝わる。神社は、古くからこの土地の人たちに領をもった「赤蔵寺」となり、地元の高い丘・赤蔵山に鎮座する神社。このの手厚い保護をうけて、たくさんの寺あかくらやま赤倉神社は、七尾市三引町にある小た。文禄元年(1592)には、長家みびき地元の人たちの信仰により、しんぶつしゅうごう神仏習合の名残を色濃く残す神社赤倉神社あかくらじんじゃ神社等七尾里山里海百景078本殿、仁王門)市指定建造物(拝殿、行われている。式年祭が33年ごとに地仏のご開帳であるわれ、赤蔵大権現本10月10日に秋祭が行4月10日に春祭、いたそうだ。の人は講堂と呼んでされた建物で、地元本宮寺の講堂として建立る拝殿は、元赤蔵山上一また、仁王門の先にあことがうかがえる。いて、かつて寺院だったしには仁王像も残されてある。さらに、門の網越寺院の門である仁王門がしばらく歩いていくと、石造りの鳥居から参道をその名残が残っている。赤倉神社には、今でもれる。この時まで続いたといわてきた神仏習合の信仰は、仏様をいっしょに信仰した。このように、神様として「赤倉神社」となっと、大山津見神を祭神とおおやまづみのかみに神仏分離令が出される明治元年(1868)総けやき造りの仁王門(上)、門の網越しには仁王像が残る(下)拝殿は、元・赤蔵山上一本宮寺の講堂として建てられた建物参考文献―書籍『田鶴浜町の歴史上』(田鶴浜町)「原始・古代」P 71-73/「中世への橋わたし」P 99『赤蔵山ハンドブック』(田鶴浜町)P 8-22『書府太郎上巻』(北國新聞社)P 610―ホームページ『ななoh!ネット』(七尾市観光協会)「見どころ」場所赤倉神社/七尾市三引町53-5、9地図へ94