タイトル:七尾里山里海百景

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概要

七尾湾を中心とした豊富な資源から漁師町としても栄え、また能登らしい固有の農業文化も育み守られてきた、七尾市の里山里海の百の景色を紹介する電子ブックです。

歴史七尾里山里海百景070復元された蝦夷穴古墳の墳丘全景雄穴石室の玄室奥壁(上)雄穴石室の羨道(えんどう)(下)の平面形は、雄穴が「T」字形、雌穴2年(1990)から平成8年(19レンガを積むように石室が造られ、そもなかば壊れる状態だったため、平成海岸から採取した安山岩板石を用いて、しかし、古墳の傷みが激しく、石室あんざんがんた一辺が約20mの方墳で、同時期にお穴・雌穴)をもつことである。付近の(1981)に国の史跡に指定された。り頃(7世紀中頃から後半)に造られの様式で、一つの墳丘に二つの石室(雄歴史的にも意義が高く、昭和56年ている。この古墳は、古墳時代の終わ特徴的なのは、典型的な終末期古墳本と朝鮮半島を結ぶ手がかりとして、墳は、一風変わった古墳として知られ規模の古墳である。他に例がなく、能登ばかりでなく、日にある須曽町に位置する七尾湾に囲まれた能登須す島曽そ。蝦えそ夷ぞのあ穴な南古部能登において、墳丘・石室規模も最大このような石室をもつ終末期古墳はける唯一の方墳である。また、当時のいる。高句麗の古墳に通じているといわれてこうくりいている。これらの技法は古代朝鮮・を持ち送りながらドーム型の天井を築朝鮮半島の古墳に類似、能登の移り変わりを見つめる国指定史跡きより横幅が広く、奥壁部分は、板石また、石室の内部(玄室)は、奥行げんしつ須曽蝦夷穴古墳ない形を示している。が「逆L字形」という通常では見られすそえぞあなこふん国指定史跡土品などを展示している。出土品や発掘中の写真、島内の遺跡出くには「蝦夷穴歴史センター」があり、部も見学することができる。また、近築造時の姿に復元された。現在は、内後世に伝えていく大切な史跡として、われた。将来に渡って末永く保存し、96)にかけて、調査・保存整備が行隣接する蝦夷穴歴史センター古墳の前方に広がる古代景観のイメージ図83参考文献―書籍『新修七尾市史14通史編Ⅰ』(七尾市)「古墳築造と地域社会」P 106『図説七尾の歴史』(七尾市)「原始・古代の七尾」P 24-25―ホームページ『ななoh!ネット』(七尾市観光協会)「須曽蝦夷穴古墳」『いしかわの遺跡』(石川県埋蔵文化センター)場所須曽蝦夷穴古墳/七尾市能登島須曽町タ部21番地5地図へ