タイトル:七尾里山里海百景

ページ
81/120

このページは 七尾里山里海百景 の電子ブックに掲載されている81ページ目の概要です。

「このページを開く」か「最初のページを開く」で、ぞれぞれのページが開きます。

概要

七尾湾を中心とした豊富な資源から漁師町としても栄え、また能登らしい固有の農業文化も育み守られてきた、七尾市の里山里海の百の景色を紹介する電子ブックです。

歴史七尾里山里海百景068復元された実物大の南門と塀に昇格する前から、国分んでいた。また、国分寺全体を南門がある塀で囲し式き」の伽藍配置をとり、西に金堂を置く「る。完成期には、ほ法っ東起きに寺じ塔、の全容が整ったといわれ廊の整備が行われ、9世紀には、金堂伽がやら藍ん回こんどうわる。せて、国分寺としたと伝が建てた支配しただ大い豪こ興う族寺じ・を能昇登格臣さ氏のとのおみ世紀中頃からこの地方を保が困難だったため、7国分寺を建てる費用の確病の大流行や飢饉により、その頃、能登国では、疫(843)のことだった。まりが経過した承和10年じょうわは、それから100年あ登国分寺が創建されたの立の詔」を出した。能みことのり一角に位置する。各国に寺院の建立を命じた「国分寺建南端から古府町にまたがる水田地帯の教による国家鎮護のため、当時の日本能登国分寺跡は、七尾市国分町の東天平13年(741)、聖武天皇が仏実物大の門や遺構を復元し、歴史を学べる史跡公園に能登国分寺跡附建物群跡のとこくぶんじあとつけたりたてものぐんあと国指定史跡れている。スポーツを楽しんだりと幅広く利用さがあり、広い芝生の上で横たわったり、る。さらに公園には広い駐車スペース実した情報提供により理解を深められする「能登国分寺展示館」があり、充出土した遺物や模型、写真などを展示遺構も復元された。また、公園内には塀のほか、塔・金堂、講堂の跡などの園」として整備され、実物大の南門とに指定された。現在は「能登国分寺公国分寺跡附建物群跡」の名称で国史跡昭和49年(1974)には、「能登木簡、和同開珎などが出土されている。もっかんわどうかいちんまた、遺物としては、瓦・堂・塔・講堂・南門などが瓦が発と塔う見・さ土どれと塔うた、。昭和45年(1970)から始まり、金ら知られており、本格的な発掘調査は能登国分寺跡の存在は、江戸時代かの場として栄えた寺である。の時代から約400年間、能登の仏教寺に置く大般若経を安置し、大興寺だいはんにゃきょう塔心礎能登国分寺展示館能登国分寺伽藍復元模型講堂跡81参考文献―書籍『新修七尾市史14通史編Ⅰ』(七尾市)「律令国家と能登」P 157『図説七尾の歴史』(七尾市)「原始・古代の七尾」P 32―ホームページ『いしかわの遺跡』(石川県埋蔵文化センター)場所能登国分寺跡附建物群跡/七尾市国分町、古府町地図へ