タイトル:七尾里山里海百景

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概要

七尾湾を中心とした豊富な資源から漁師町としても栄え、また能登らしい固有の農業文化も育み守られてきた、七尾市の里山里海の百の景色を紹介する電子ブックです。

七尾城跡最大の規模を誇る桜馬場跡の石垣が配された、難攻不落のほまれに築いた本丸を中心に多数の郭くるわ大で、標高約300mの尾根上した城である。「七尾」の地名は松・名松尾城とも呼ばれた。その規模は壮の政治・経済・文化の拠点として機能丸が松尾に築かれていたことから、別治めたはたけやま畠山氏の居城として、また能登があったことに由来する。七尾城の本七尾城は、170年にわたり能登を竹・梅・鶴・亀・龍・虎の七つの尾根難攻不落のほまれ高く、天宮ともうたわれた戦国の巨大城郭七尾城跡ななおじょうあと歴史七尾里山里海百景067下まで車で登ることができる歩道も整備されている。本丸周辺の主要な遺構をめぐる遊や七尾市街が一望でき、本丸現在の本丸跡からは七尾湾史跡に指定されている。和9年(1934)12月に国の郭史上優れた遺跡として、昭石垣は、中世における山岳城る。これらの郭(曲輪)跡や七尾城跡でも最大の規模を誇築く技法を使って構築され、は、背の低い石垣を何段にも本丸跡には七尾城址の石碑が建つでも、桜馬場跡の北側の石垣工法を用いた石垣が残る。中の山城に多い「野面積み」ののづらづれ、本丸跡周辺には、戦国期跡などの遺構が随所に保存さ・屋敷跡・今日、本丸跡・二ち調ょのう度ど丸ま丸る跡跡・・三さ桜くのら馬の丸ば場ば跡なったと考えられている。は天正17年(1589)までに廃城と代わる新たな城を市中に築き、七尾城その後入城した前田利家は、七尾城に天正5年(1577)9月に落城した。は、約1年にわたる激しい攻防の末、6)、上杉謙信の侵攻を受けた七尾城いったとみられる。天正4年(157られて、次第に巨大城郭が形成されて戦国期に入ってから拡張や増強が加え当初はとりで砦程度の規模であったものが、504?1521)と考えられ、築城高き山城であった。築城は永正年間(1本丸跡からの眺望二の丸の石垣国指定史跡さを実感できる。かした七尾城の縄張り(設計)の巧み眼下に眺められ、複雑きゅうしゅん急峻な地形を生のばせば、尾根を切り開いた本丸跡がも可能である。さらに展望台まで足を史の道」を歩いて本丸跡を目指すことほか、かつての大手道を整備した「歴参考文献―書籍『図説七尾の歴史と文化』(七尾市)「中世」P 70・P 72『自然人No.28 2011年春号』(橋本確文堂)「特集北陸の山城入門」P 12―ホームページ『ななoh!ネット』(七尾市観光協会)「史跡・七尾城跡」『七尾城山を愛する会』(七尾城山を愛する会)「七尾城」場所七尾城跡/七尾市古屋敷町、古府町地図へ80