タイトル:七尾里山里海百景

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概要

七尾湾を中心とした豊富な資源から漁師町としても栄え、また能登らしい固有の農業文化も育み守られてきた、七尾市の里山里海の百の景色を紹介する電子ブックです。

祭礼七尾里山里海百景002氣多本宮に入る一行参道を駆け抜ける神馬退治し能登を平定したという故事が強祭神である大国主神が邑知潟の大蛇をおうちがた変更された。その名も、氣多大社の御ことが多く、元禄年間、3月の開催に(長柄鎌、順にながえがま広矛、社名旗、太鼓、ひろほこ開催されていたが、大雪に見舞われる車を先頭に、神職(乗馬)、威儀の物いぎは、祈年祭の行事として旧暦の2月にばれた、背に御幣を立てた神ごへい馬・先導りとも言われている祭りである。本来りを巡行する。現在は、おみくじで選から続くもので、能登の春祭りの皮切発し、七尾市に向けて150kmの道の社へと還御する神事である。江戸時代かんぎょ月18日の早朝、羽咋市の氣多大社を出宮)におもむ赴き、さらに、羽咋市の氣多大往路は「おいで祭り」と呼ばれ、3町にある能登生國玉比古神社(氣多本のといくくにたまひこじんじゃ国祭」と改称された。こくさい大祭で、氣多大社の神輿が七尾市所口なり、さらに明治期に入ってから「平へい平国祭は、羽咋市にある氣多大社のへいこくさい調され、「平国祭」と呼ばれるようにくにむけのまつり春の訪れを告げる古式ゆかしい祭礼平国祭(おいでへいこくさい祭り)まつた。また、馬に乗って参道をその年の天候や吉凶等を占っのときの神馬の毛色を見て、かつて、七尾の人々は、こが玉橋を駆け上がる。る。次いで神輿を担いだお供次、鳥居から参道を駆け抜け神幸係の合図で、神馬は、順しんこうを先頭に一直線に整列する。が勢揃いし、道に沿って神馬宮では、長い巡行を経た行列21日の夕刻、七尾の氣多本勢50名の行列が仕立てられる。持、神輿をかつぐ役)等、総なぐ馬(ば長が宮う祢ね唐て車も丁いちじぎ)持司宜櫃、、(((、は白く神車乗乗錦て丁い輿)、馬馬旗(さ台宰)い、)、宰り、け車ょ献四ん神み領領う((備びこ神、は輿し車車箱こ、族威))(ど、同)儀、う、車だ物神長台い奉)奉職持、、持、、からびつにしはたしじんぞくほうじ玉橋を駆け上がる神輿厳かに執り行われる神事に帰還する。泊6日の行程を経て、一行は氣多大社わり、23日に、道のり約300km、5帰路は「おかえり祭り」と名前が変しまれている。尾に春の訪れを告げる風物詩として親さも氣多のおいでまで」と言われ、七ってしまったが、昔から地元では、「寒う。現在では昔ほどの賑わいはなくなり、わざと馬を驚かせた者もいたといすると、米価が下落すると言われておた大根などを投げつけて落馬させたり駆け抜ける神職を、付近の畑から抜い7参考文献―書籍『新修七尾市史13民俗編』(七尾市)「信仰と祭礼」P 522-530―ホームページ『ななoh!ネット』(七尾市観光協会)『世界農業遺産「能登の里山里海」情報ポータル』(「能登里山里海」世界農業遺産実行委員会)「文化・祭礼」場所能登生國玉比古神社/七尾市所口町ハ48地図へ