タイトル:七尾里山里海百景

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概要

七尾湾を中心とした豊富な資源から漁師町としても栄え、また能登らしい固有の農業文化も育み守られてきた、七尾市の里山里海の百の景色を紹介する電子ブックです。

走る車窓から、海の景色を楽しめるからしか島の外へ出る事はできなかっ近までは、能登島佐波町と七尾の港で日出ケ島、祖母ケ浦、通の三カ所のみ(1966)から能登島大橋の完成間ひでがしまばがうらとおりてきた。江戸時代は流刑地だったため、るけいちは不安な生活を送っていた。昭和41年島は長い間、離島という立場におかれに病人が出た場合など、能登島の人々い橋である。橋がかかるまでは、能登り生活の足となっていた。しかし、急町)とをつないでいる石川県で最も長き来する定期船が運行されるようにな能登島大橋は、能登島と本土(石崎た。明治に入ると、能登島と本土を行能登島の人々の暮らしを変えた橋能登島大橋のとじまおおはし景観七尾里山里海百景044た。橋が開通したことに伴い、能登島982)についに能登島大橋が開通しを続けてきた。そして昭和57年(1進み、「橋を架ける会」が発足、活動経済成長期を迎えると能登島の過疎が校生は自宅通学が可能になった。高度れまで七尾の市街地で下宿していた高自動車の乗り入れが可能となった。そフェリーボートが運行するようになり、ある府中町とを結ぶ唯一の手段としての良さがより評価されている。ンのコースにもなっており、その景色のはもちろんのこと、現在ではマラソな景色が楽しめる。車でドライブするあるので、まるで空を飛んでいるようで、見晴らしが良く、アップダウンが造はプレストレスト・コンクリート橋能登島を訪れることを可能にした。構ただけでなく、島外からの人が気軽にし、能登島の人々の暮らしを便利にしった市内へのアクセスを容易に登島大橋は、それまでは難しかは観光の島となっていった。能行料金無料化も手伝い、能登島った。平成10年(1998)の通とじま)などの充実を図っていス美術館、交流市場(道の駅の(のとじま水族館)、能登島ガラゾートとして臨海公園水族館は観光に力を入れて、一大リ美しい曲線を描く能登島大橋和倉温泉多目的グラウンドと能登島大橋参考文献―書籍『能登島町史資料編第二巻』(能登島町)「島の経済伝承-生業の諸相-」P 884『図説七尾の歴史』(七尾市)「近現代の七尾」P 168『図説七尾の歴史と文化』(七尾市)「近・現代」P 246場所能登島大橋/七尾市石崎町、七尾市能登島半浦町地図へ54