タイトル:七尾里山里海百景

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概要

七尾湾を中心とした豊富な資源から漁師町としても栄え、また能登らしい固有の農業文化も育み守られてきた、七尾市の里山里海の百の景色を紹介する電子ブックです。

田を開いたが、かん埋め立てて新しい水(1830)に海面を近四郎は、天保初年路のことを指す。左の下をくぐる地下水水路のうち、高ノ山700mのかんがい四郎が築造した全長の肝煎を務めた左近きもいり1859)、舟尾村政年間(1854?尾おのマンポ」は、安垣吉町に残る「舟ふのでいる。「ホウダツ」と呼んはマンポのことをとから、この地区で者が工事を行ったこ宝達志水町)の技術もので、宝達村(現897)に造られた湯川町に残るマンポは明治30年(1を果たしてきたかんがい設備である。とで、新田開発をする上で重要な役割マンポとは、農業用の地下水路のこ巧みの技、農業の地下水路マンポ農七尾里山里海百景039湯川のマンポあたりにある高ノ山と呼ばれる小高い川を造った。この水路のちょうど中間出て、二宮川から水を引くために舟尾がいが不便なことから、十村役に願いとむらやくいるともいえるだろう。められ、田園風景が保たれてよって、現在もその形がとどられている。当時の匠の技に調整するための工夫だと考えかに水を逃すことで、水量をを弱め、小マンポからゆるやポのカーブによって水の流れ洪水の場合を想定し、大マン資料はないが、築造する際、カーブしているのかを伝えるれ、しかもそれぞれがなぜのマンポ」がなぜ2本に分かたりでまがっている。「舟尾のマンポはともに、中央部あした断面の水路である。大小3.5mで、縦に長いタマゴ形をンポは、長さが約65m、高さが約3.1?る。一方、大マンポの北西にある小マ5m。断面の形は横に長い楕円形であうのマンポは長さが約45m、高さが約ンポは二つに分かれており、大きいほンポのあるあたりは珪藻土である。マしたのが「舟尾のマンポ」である。マ山の下にトンネルを掘って地下水路に湯川のマンポの水源を利用して営まれる棚田舟尾のマンポに続く舟尾川音を奏でているという。ことが出来る。そこは水琴窟のようなの中に水路があり、ところどころ見るであるが、「湯川のマンポ」は山すそは地元の人でもそれを見ることは困難「舟尾のマンポ」と「深見のマンポ」ある。集団があったと推察できる一つの例で施工する土木指導者もしくは土木技術これもまた、高度な土木技術、それを地に運び、造られたといわれている。ら土砂を舟の上に落として、埋め立てタ舟と呼ばれる舟をつきあて、両側かンポ」がある。このマンポは、山にゲにも及ぶ巨大な地下水路、「深見のマまた、深見町にも、全長約300m47参考文献―書籍『田鶴浜町の歴史上』(田鶴浜町)「租税と土地制度」P 166-169―ホームページ『世界農業遺産「能登の里山里海」情報ポータル』(「能登里山里海」世界農業遺産実行委員会)「農林水産業」場所湯川のマンポ/七尾市湯川町大坪地内地図へ舟尾のマンポ/七尾市垣吉町地図へ深見のマンポ/七尾市深見町地図へ