タイトル:七尾里山里海百景

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概要

七尾湾を中心とした豊富な資源から漁師町としても栄え、また能登らしい固有の農業文化も育み守られてきた、七尾市の里山里海の百の景色を紹介する電子ブックです。

七尾市と鹿島郡中能登町の仏壇店と国指定伝統的工芸品けている。写真提供/七尾仏壇協同組合須彌壇造り」と呼び、豪華さに輪を掛の作品も展示されている。しゅみだん少し前に据え付けている。これを「に一段高く設けられた壇・須弥壇を出で、た「百工の間」には、七尾仏壇の職人壁にある、県内の伝統的工芸品を納めしゅみだんであるお釈迦様や阿弥陀様を祀るためJR金沢駅の新幹線ホーム階待合室のる。仏壇のほぼ中央部にあり、ご本尊け継がれる匠の技の継承に努めている。いる。また、内部の様式にも特色があ商標に登録され、3世紀にわたって受の彫刻など、その豪華さは群を抜いて平成18年(2006)には、地域団体柱や扉に施された蒔絵や箔押し、欄間いる。七尾仏壇(200代新三十本)全国に14ある。七尾仏壇はその中でも、理も行って統的工芸品に指定され、同様の産地はきる。昭和53年(1978)に国の伝七尾仏壇の特徴は、荘厳華麗さに尽人による手作りの技だといえる。「蒔絵」「金具」「箔押し」の五つの職れる。七尾仏壇伝統工芸士米村正勝車などの修の神輿や山みこし修復、祭りか、仏具のの販売のほしてきたのは、「彫刻」「木地・組立」では、仏壇を活かして仏壇製造が始まったといわ仏間のサイズが変わっていくなかで、それぞれの要望に合わせた仏壇を提供壇協同組合が七尾に移り住み、それらの伝統技術情の変化とともに、和室のデザインやする七尾仏七尾仏壇伝統工芸士髙木清一田利家の七尾入城と共に、多数の職人多くを占めたそうだ。その後、住宅事職人が加盟畠山氏の時代が終わり、加賀藩祖・前200代という大きなサイズの注文が尾仏壇の基礎と伝わる。のちに能登・180cm)の仏間をもつ家が多く、文化産業を保護したことが、今日の七ある。能登の民家は大きく、6尺(約塗り、蒔絵、金具、彫刻などの職人やったのは、明治に入ってからのことで守護職として七尾に入った畠山満慶が、紀半ごろで、庶民の家に入るようにな室町時代初期、応永15年(14みつのり08)、今日の七尾仏壇が生まれたのは17世石川の優れた工芸技術を駆使、他地域にない荘厳華麗さを誇る七尾仏壇七尾仏壇伝統工芸士辻口強緻密な職人の手技ななおぶつだん産業七尾里山里海百景028参考文献―書籍『図説七尾の歴史と文化』(七尾市)「中世」P 147―ホームページ『七尾仏壇』(七尾仏壇協同組合)34