タイトル:七尾里山里海百景

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概要

七尾湾を中心とした豊富な資源から漁師町としても栄え、また能登らしい固有の農業文化も育み守られてきた、七尾市の里山里海の百の景色を紹介する電子ブックです。

気の温泉地である。57年以来、100万人を超えるほど人泉として知られ、年間浴客数が、昭和和倉温泉は、全国でも珍しい海の温七尾が誇る歴史ある名湯和倉温泉わくらおんせん湯元広場にある温泉の由来となるシラサギのブロンズ像湯が見つかったという。みると、そこに湧き出る不思議に思って近づいてギを見つけた漁師夫婦が能登島大橋から見る和倉温泉の旅館傷ついた足を癒すシラサられる。七尾湾の沖合で婦によって湯脈が見つけ倉に暮らしていた漁師夫年?1053年)に、和後、永承年間(1046湧き口が移動する。その後、地殻変動により沖合60mの海中に(806年?810年)の温泉湧出の経つとも言われている。大同年間その歴史は古く、開湯後1200年産業七尾里山里海百景026ととなり、各旅館では内湯が完備誉を得て、名声が一気に高まるこ泉学博覧会で和倉の湯が三等の栄明治時代、ドイツで開催された鉱で運ばれていたという。さらに、までも、温泉が樽に詰められて船がり、金沢や富山、遠くは大阪へを入れて入浴するという風習が広の、七尾の旅館の風呂に和倉温泉また、七尾の商人や藩の武士達なった。の湯治客が訪れる人気の温泉街と湯宿が建てられると、和倉は多くられ、大きな湯座屋や鉱泉宿、内せた。湯島整備が進み、橋も架けじ、周囲を埋め立てて湯島を造らしやすいようにと温泉の整備を命主・前田利常が、湯治の湯として利用としつね療したことから評判が高まり、三代藩いたところ、この温泉を取り寄せて治二代藩主・前田利長が腫れ物で困ってとしながことができなかった。しかし、加賀藩を利用するければ、湯いる時でな潮が退いてる)にあり、語源でもあは「和倉」の江。「湧浦」く浦(入り脈は湯の湧当時、湯和倉温泉総湯温泉街にある海の見える足湯の人に親しまれる温泉街となっている。れ、地元の人から観光客までより多くに行ける総湯や足湯、街並みも整備さ現在は20数軒の宿が建ち並び、気軽ている。血症、肥肝症などに効果があるとされとされ、さらに飲用すれば胃腸痛や貧婦人疾患、アトピーなどに効果がある痛風、神経痛、貧血、虚弱児童、慢性果」が挙げられる。そのほかリウマチ、き締め、肌をなめらかにする「美肌効を防ぐ「保温効果」、塩分が毛穴を引着することで汗の蒸発を抑え、湯冷め用する「殺菌効果」、塩分が皮膚に付その効能としては、傷や皮膚病に作されて観光化が促進されていった。参考文献―書籍『新修七尾市史16通年編Ⅲ』(七尾市)「近世七尾の文化・社会・宗教」P 382-391『図説七尾の歴史と文化』(七尾市)「近世」P 134/「近・現代」P 252『図説七尾の歴史』(七尾市)「近現代の七尾」P 154―ホームページ『わくらづくし』(和倉温泉観光協会・和倉温泉旅館協同組合)場所和倉温泉/七尾市和倉町地図へ32