タイトル:七尾里山里海百景

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概要

七尾湾を中心とした豊富な資源から漁師町としても栄え、また能登らしい固有の農業文化も育み守られてきた、七尾市の里山里海の百の景色を紹介する電子ブックです。

は、壮観だ。声をあげて囃す若衆。若者たちにとってもこの祭りは1年のうちで欠かせない行事である暴れ、乱舞する。祭りの光と音の饗宴り囃子を響かせる。その中を、奉燈はげ、各町の担ぎ手は競い合うように祭前に集結する。広場では松明が炎をあ夜8時半頃には、全奉燈が湊町の仮宮仮宮で執り行われる奉燈奉納の神事前半の見どころは仮宮前広場である。祝唄である。加賀、長久弥栄」という加賀藩時代のットコセー」と囃す。これは、「祝賀「シューガ・カーガ・チョウチン、ヤには若衆がた家を祝うときにあわせながら赤タスキ姿の指など慶賀のあっいの姿で乗り込む。太鼓の速度新築、嫁婿迎え太鼓の囃子役の子どもたちが揃した、もしくは担がれ、その上には、笛、町の奉燈は50人余りの若衆しょう鉦連、に児や初子が誕生またこの年に男で祗園信仰が盛んだったころ、京都祗11基の奉燈が一斉に担ぎ出される。各カサー」である。の平安時代、厄除神防疫神として全国夕闇がせまると氏子町内からは大小ッサイイヤサきじょしんぼうえきしん第2土曜日に行われている。清和天皇まは見ものである。カサイサカサ(山王神社)の夏祭り。毎年、7月のであるが、11の奉燈がずらりと並ぶさサカサーサッられる七尾市山王町にある大地主神社石崎町の大奉燈と比較すると小ぶりり囃子は「イヤおおとこぬしも呼ばれる七尾祗園祭は、青柏祭で知行ったのがこの祭りの起源である。基本となる祭り」、あるいは「山王のお涼み祭り」と治の改暦で7月となる)七尾祗園会をどころでもある。「東のお涼み」、「東のお涼み奉燈祭園を能登に勧請して毎年6月14日(明にとっての見せの調和が、各町ぶりと、担ぐ者の指揮者の統率東のお涼み、京都の祗園に由来、かがり火と奉燈の饗宴を繰り返す。そほうとうきょうえん徐行、停止など七尾祗園祭と、奉燈は疾走、導者の合図のもななおぎおんまつり祭礼七尾里山里海百景009りは終息する。踊である「七尾まだら」を披露し、祭で十二番を引いた町が、七尾の伝統舞殿に安置される。最後には、くじ取り還御祭が営まれ、神は神輿から再び本深夜、神輿が還御すると、社殿ではみこしかんぎょの見どころの一つである。ろ狭しと乱舞する。ここもまた、祭り主神社へ移動し、社殿内でまた、とこその後11基の奉燈が列となって大地港町の仮宮前広場では松明のもとで奉燈が乱舞する参考文献―書籍『新修七尾市史13民俗編』(七尾市)「町の民俗」P 338―ホームページ『ななoh!ネット』(七尾市観光協会)「七尾祗園祭」『石川新情報書府』(石川県)「七尾祗園祭」『わくらづくし』(和倉温泉観光協会・和倉温泉旅館協同組合)「七尾祗園祭」場所大地主神社/七尾市山王町1-13地図へ仮宮/七尾市湊町14